2011年12月15日木曜日

異文化 〜何所までいっても君は〜

人は皆、

それぞれに、それなりに、

理不尽を抱えながら生きているのでしょうが、

いやぁ、堪え難いね。

こういう時に、宗教というのは非常に平安な逃げ場になるものです。


以前は、宗教の枠のなかで生きていただけに、

その枠の外にいる今、“理不尽” をどう消化するのか、

自分自身、見所であります。



いやぁ、しかし堪え難いわぁ...。


“理解不能”


というのは、基本的に自分の常識と、相手の常識が、

水と油のように解け合わないだけの話で、

どっちも正しいと想ってる所が厄介なんだけど、

一方で、“真理” というものは確かにあって、

それはやはり俯瞰でモノを観る事が出来て、

何が正しいのかを客観的に道徳的に、建設的に

筋の通った判断する、という事なんだろう。


解りやすく言うと、

炒めるときは、油。

ゆでるときは、水。

揚げるときは、油。

蒸すときは、水。

ゴッホは、油。

雪舟は、水ときどき墨。


的なのが解ってれば良いんだと想う。

その、水も油も結局 “ちょっとした事柄のひとつ” でしかない訳で、

その選択が適切かどうか、それだけの話なんだけど。


ただ、見当違いな人っていうのは、

水で揚げようとしたり、油で蒸そうとしたりするのね。


その上、「いやいや、蛇口に“油”って書いてあったもん!」

とか、「だって、サラダ油のペットボトルに“六甲の美味しい水”って書いてあったの!」

とかウソ八百を平気で言いやがる...


あるかぁぁx〜ボケ〜〜亜序;f位jえt:ごkrz_;



ほんと、腹立つわぁ〜

いいんすよね、正直間違える事なんて、屁でもないのよ。

ウソをつくんじゃないよ、ウソを...


意見を述べる以前に、まず自分を見つめるベキなのですが、

そういう人に限って間違えを認めず、すぐに他人のせいにするんすよ。

死んでほしいわぁ、出来る事なら。



ただ、そういう人間が何パーセントか“存在する”という事は、

社会が成り立つ上で、そういう人間が、

何パーセントかは“必要”という事なのだろうか?

人間が止まってしまわない為に、“理不尽”は必要なのかなぁ?

かなわんわぁ...

否、頭では解るけど、生理的に嫌だわぁ...



そこがどうしても解せない僕もまた、

見当違いの住人なのかもしれない。



されど日々は続く...

2 件のコメント:

  1. Yane Hendrix さんのコメント

    油カタブラ 水知ラズ 赤子泣イテモ他人様


    2011年12月16日17:45

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  2. Yane Hendrix 様

    来タカラ帰ル 皆見ズ知ラズ 陽ガ沈ンダラ ニシン蕎麦

    いつか一緒に飲んでみたいものです。

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